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遠州公の茶会記(寛永17年7月20日)


今日は「処暑(しょしょ)」で暑さが和らぐ頃と言いますが、猛暑日となり暑い一日でしたね。とはいえ、朝夕は随分過ごしやすくなってきましたので、そのうち日中も涼しくなり秋が深まっていくのでしょうね。

当ブログも700近い記事を書いてきて、完全に「ネタ切れ」の状態です。そこで新しいシリーズを作らないともう書けないと思い、今回から過去の茶人の茶会記などを解説するシリーズでも作ろうか?と考えました。

だいぶ専門的な話になってしまうことが予想され需要があるのか分かりませんが、背に腹は代えられません。お付き合いいただければ幸いです。

さて、初回の今日は遠州公の茶会からご紹介しようと思います。今日は旧暦でいうと7月21日ですので、その近辺の日をということから寛永17年(1640年)の7月20日の茶会記をどうぞ。

客は5名で、酒井備後殿、吉良上野殿、安藤右京殿、松平出雲殿、酒井蔵人殿です。ここで歴史好きの方は「吉良上野殿」に反応されるかもしれませんね。しかし、この方は忠臣蔵で有名な「吉良上野介」ではなく、そのお祖父さんの吉良義弥(よしみつ)という方です。忠臣蔵で有名な吉良上野介は寛永18年の生まれとのことですから、この時はまだ生まれていません。


同(七月)廿日之朝
一 掛物 驢馬
一 棚下 香合 羽箒

中立

かけもの取て 花入 あまつら 沢ききょう
一 茶入 あすか川 水指の前に
一 水指 右同(信楽 六角)
一 柄杓 ふろ 水さしの間にかけて
一 茶わん 水こほし 右同(茶碗 染付、水こほし 合子)

(『小堀遠州茶会記集成』 小堀宗慶編 平成8年 主婦の友社)から
*( )内は筆者注、なお仮名遣いなど一部を改める 



それでは、内容を見ていきましょう。驢馬(ロバ)の掛物とは、松花堂昭乗の描いた絵で、沢庵和尚や江月和尚などの賛があるものだということです。恐らく、私はまだ見たことがありません。

次に「棚下」というのは、台目の部屋で天井から釣り下がった棚(釣棚、「吊棚」とも)の下の棚のことで、遠州公の茶席ではこの二重の棚がよく見られます。元は織部の好みであるとされ、上下の棚の大きさが異なり(上の棚が大きく、下の棚が小さい)、雲雀(ひばり)棚と呼ばれています。

その雲雀棚の下の方の棚に羽箒と香合が飾られていたということです。なお、この飾り方は現在当流でも同じように行います。この書きようからでは、羽と香合の位置関係は分かりませんが恐らく今と同じなのでは?と思います。

羽箒と香合が飾られていることから、初座では炭点前をしたのでしょうが、他の道具は常のものを使ったのか記されていません。そして中立があり、席中の飾りつけを変更します。

席に戻ると掛物が取られ、花が入っています。「あまつら(あまづら)」とは蔦(つた)のことだと言われていますが、他の説もあり、はっきりとしたことが言えません。なお、蔦の花は地味だと言われているので違うのかもしれませんし、葉っぱを使ったのかもしれません。

また、「沢ききょう」は遠州公の好んだ山野草とのことですが、毒草だそうです。毒のある植物は茶席に入れない(禁花)とされることもありますが、この当時はさほどうるさく言わなかったのかもしれませんね。実際、遠州公は禁花と言われる河骨(こうほね)をよく入れています。

「花に法度を言うは初心の為なり」という言葉もあるように、遠州公のような巧者には禁花などは無いと考えた方が良いのかもしれません。まあ、私のような巧者でない者は、無難な花を選ぶようにしています。

茶入の「飛鳥川」は遠州公の最も愛用した茶入の一つとしても大変有名で、現在は湯木美術館の所蔵となっています。「水指の前に」とありますが、この書き方だけでは真正面なのか、当流で言うところの「すりはらい」なのかははっきりしませんが、柄杓の飾り方を考えると恐らく水指の真正面なのでしょう。

ここで、遠州流系統以外の流派の方が驚かれるのは、「柄杓を風炉と水指の間にかけて」というところかと思います。これは当流ではもうほとんどすることがありませんが、台目の部屋では風炉先窓の敷居の上に柄杓をかけることがあります。

どうして当流ではほとんどすることが無いかと言うと、台目で、風炉先窓がある部屋で点前をすることがほとんど無いからです。松殿山荘ではほとんどの部屋が広間で、小間の部屋でも台目の部屋がほとんどなく、あっても風炉先窓が無いのです。

また当家の茶室も台目ではありませんので、そういった部屋で点前する機会が無いんですね…いつかそういった部屋でする時はぜひこの飾りをしたいのですが、そういった機会が早く巡ってくれることを祈っています。

最後に茶碗が染付とありますが、同じ月の26日の会記には「くもの染付」とありますので、この日も同じ茶碗を使っていたかもしれません。そうならば、恐らくは「雲堂手」と呼ばれる染付の茶碗が使われたのでしょう。

現代では薄茶の茶碗と捉えられていることが多い染付の茶碗ですが、この頃はそうでもなかったのでしょう。現代とは色々なことが違って面白いですね。

ある程度予想していたとはいえ、かなり長くなり、かつマニアックな内容になってしまいました…また機会があれば書いてみますが書く方も結構大変ですね。





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